CGL通信 vol15 「真珠講座2『養殖真珠の歴史』」

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CGL通信 vol15 「真珠講座2『養殖真珠の歴史』」

赤松 蔚 

真珠講座1 で述べたように、人類は非常に古くから天然真珠との関りを持ってきた。天然真珠との関りが深まれば深まるほど、「真珠は一体どうして出来るのだろうか」と考えるようになり、やがて「真珠はどうすれば人の手で作ることが出来るか」と考えるのは当然の成り行きであろう。今回は真珠の成因、諸外国における真珠養殖の試み、そして日本における真珠養殖の試みとその成功について述べる。

1.真珠の成因

「真珠はどうして出来るのか」という成因については古くから色々な考えがあった。最も古いのは涙説で、天使や水の精、愛しい人の涙が貝の中に入って出来るというものである。かつてアメリカの博物館スタッフが鳥羽の御木本真珠博物館を訪れ、「天然真珠は人魚の涙である」と言った際、真珠博物館の松月館長がすかさず「養殖真珠は(それを作った)人の涙である」と切り返したのにはさすがと思った。涙説に次いで古いのが露によるというもので、貝が水面近くまで上がってきて貝殻を少し開けている所に露が落ちて真珠になるというこれもなかなかロマンチックなものである。古代ローマの博物学者プリニウスによれば、新鮮な空気と温暖な日光を受けた清浄な露が貝の体内に落ちると良い真珠になり、その反対では真珠の色彩光沢は落ちる。曇天に生じた珠は淡色で、海水よりも日光、天候などの影響が大きいと述べている。この露説は1世紀頃から11世紀頃まで信じられていたようである。これ以外にも稲妻の閃光によって出来るという稲妻説もあった。真珠成因について初めて科学的に記述されたのは1554年で、フランスのRondeletが「真珠は哺乳類に病的にできる結石と同じものが貝類に出来たものである」と論じた。

16世紀に入ると顕微鏡が発明され、それ以来真珠の成因についても急速に科学的なものへと発展していった。17世紀から20世紀初頭にかけて色々な真珠成因説が出されたが、その主なものは次の通りである。
 1)貝殻を形成する体液が凝縮して出来る。
 2)貝の内部的原因によって凝縮物が形成され、その周囲に貝殻物質が沈着されて出来る。
 3)排卵出来なかった卵細胞が刺激となり、その周囲に出来る。
 4)貝殻物質が砂粒物質の上にそれに被さるようにして分泌されて出来る。
 5)貝殻が傷つけられたり、または孔を穿たれた場合、その結果として真珠が出来る。
 6)寄生虫が原因となって出来る。
 7)貝殻と軟体部の中間、又は外套膜に突出している外皮組織の袋の中に出来る。

1858年ドイツのヘスリング(von Hessling)が真珠形成には真珠袋が必ず存在し、真珠は真珠袋の分泌作用によって形成されると唱えた。この真珠袋の考え方が後に養殖真珠を成功へと導くのである。

2.諸外国における真珠養殖の試み

写真1:仏像真珠

写真1:仏像真珠

前述のように真珠形成に関する研究は16世紀頃から盛んに行われるようになるが、これらの研究が実際の真珠養殖研究に結びつくことはなかった。ヨーロッパのこうした研究とは全く無関係に真珠養殖が世界で最も早く具体化したのは中国の仏像真珠であることは非常に興味深い。中国では11世紀頃から淡水産二枚貝(主としてカラスガイ)に鉛で仏像などを象った物体を貝殻と外套膜の間に挿入し、物体表面が真珠層で覆われるとそれを切り取り、仏具や装飾品に使用されていたと言われ、このことは1167年に発行された「文昌雑録」に記事になっている。その後この技術は改良され、13世紀には蘇州の太湖湖畔に位置する寒村を中心に、貝殻で作った玉や薄い鉛製の仏像などを核にして盛んにいわゆる半形真珠が養殖された。この仏像真珠は1734年中国に滞在したフランス人神父によって本国に伝えられ、フランスとイギリスで1735年に刊行された水産関係の書物によって中国の養殖真珠の全貌が全ヨーロッパに紹介された。その結果ヨーロッパでは18世紀以降多くの学者がこの仏像真珠を手本に真珠養殖の研究を行った。そのうち有名なものをいくつか次に列挙する。

先ずリンネの真珠である。スウェーデンの科学者リンネ(Carl von Linnaeus 1707‐1778)は1748年スイスの解剖学者フォン・ハラーに手紙を送り、「私は真珠が貝殻の中で出来、成長する方法を考案しました。5、6年後にはソラマメ位の真珠が出来るであろう」と言っている。彼は1761年近くの川に生息する二枚貝を使用し、貝殻に小さな穴を開け、粒状の石灰や石膏を貝殻と外套膜の間に挿入し、真珠養殖実験を行った。この実験は原理的には中国の仏像真珠と同じであるが、仏像真珠のように貝殻に付着したものではなく、真円真珠を作ろうとして、T字型の金属ホールダーを球に固定し、これを貝殻内面に挿入し、貝殻内面から遊離させている。リンネが作った真珠は現在ロンドンのリンネ学会に保存されている。

1884年Boucheon-Brandely はタヒチ島で真珠貝に直径半インチ位の孔を数個開け、コルク栓を通して貝殻又はガラス製の丸い球を真鍮の針金に固定し、海中に入れておくと、球は1ヶ月後に真珠層で覆われていることを実験した。クロチョウ真珠養殖は1914年御木本が沖縄の石垣島で始めたのが世界初といわれているが、タヒチではこのBoucheon-Brandelyが世界初と主張している。

写真2:半円真珠

写真2:半円真珠

フランスのルイ・ブータン(Louis Boutan)はアワビの貝殻に小孔を穿ち、外套膜との間に小球を挿入して孔を塞ぎ海中で養い、6ヶ月で十分厚みのある真珠が得られたと報告している。ブータンは後に御木本養殖真珠が本物か偽物かで争われたパリ真珠裁判に証人として呼ばれ、1924年養殖真珠は本物という鑑定結果を出したボルドー大学の教授である。

イギリス人サビル・ケントはオーストラリア・タスマニア州政府の招きにより漁業調査官として渡豪、彼は真珠養殖研究も手がけ、1890~1891年シロチョウガイで大きな半形真珠を作り、始めは驚くほどの高値で売れたが、結局収支償わず中止したとの報告がある。御木本幸吉がアコヤガイを使用して5個の半円真珠に成功したのが1893年であるから、サビル・ケントの方が2~3年早く半形真珠養殖に成功していたことになる。サビル・ケントは真円真珠の発明者争いでこの後にも登場する。

残念ながらこの仏像真珠を手本にどれだけ努力しても、仏像真珠の延長線上に天然真珠に匹敵するような養殖真珠は存在しなかったのである。天然真珠は偶然外套膜の上皮細胞小片が何らかの原因で外套膜から剥がれて貝体内に落ち込み、そこで真珠袋(パールサック)が形成され、その袋の中で真珠が出来るのである。つまり真珠袋の形成なしに真珠が出来ることはありえないということである。仏像真珠は貝殻内面に貼り付けられた半形の核表面に貝殻と同じ真珠層が形成されるだけで、いわば貝殻真珠層に出来た瘤状の物質に過ぎないのである。

3.日本における真珠養殖の試みとその成功

日本における真珠養殖の試みは御木本幸吉から始まった。御木本幸吉は1858年(安政5年)志摩国鳥羽浦の大里町で「阿波幸」といううどん屋の長男として生まれた。13歳ですでに家業を手伝う傍ら、青物行商も始めていた。20歳になった1878年(明治11年)東京、横浜へ視察旅行に出かけ、そこで自分の故郷の天然真珠が高値で取引されているのを見て、真珠養殖を思い立ったと言われている。幸吉は1888年(明治21年)志摩郡神明浦に初めて真珠養殖場を設け真珠貝の養殖を始め、その後真珠養殖も手がけていった。真珠養殖には当時の大日本水産会幹事長柳楢悦から東京帝国大学の箕作佳吉博士を紹介された。箕作博士は1890年(明治23年)増殖博覧会の席上で幸吉に真珠の話をし、真珠養殖は理論上可能であるが、これまでだれも成功していないことを話した。これを聞いて幸吉は養殖真珠にチャレンジする決心をした。その後幸吉は幾多の苦労を乗り越え1893年(明治26年)遂に5個の半円真珠養殖に成功した。

御木本幸吉も他の真珠養殖研究者同様、中国の仏像真珠を手本として半形真珠の養殖からスタートさせたようである。ミキモト真珠養殖場に数枚の仏像真珠付きの貝殻が残っているということは、おそらく御木本幸吉も日々これを眺めながら懸命に真珠作りに励んだと想像される。しかしどれだけ仏像真珠を手本にがんばっても最終目標である真円真珠(全体が真珠層で覆われた真珠)に到達出来ないことは既に述べた通りである。

1800年代後半から1900年代初めにかけて真珠袋の研究がドイツ、フランスを中心に多くの研究者によって行われた。特にドイツのヘスリング、アルバーデスはこの真珠袋形成理論を明確にした。当時この真珠袋理論は東京帝国大学の箕作博士の元にも伝わっており、この理論は御木本幸吉も教わっていたはずである。そしてここに仏像真珠を経由せず、いきなり真珠袋の研究から真珠養殖研究をスタートさせた2人の日本人、西川藤吉と見瀬辰平が登場する。西川は1874年(明治7年)大阪に生まれた。1897年(明治30年)東京帝国大学動物学教室卒業と同時に農商務技手として水産局に勤務。この頃から御木本と関わりを持つようになるが、これはおそらく御木本の養殖場で発生した赤潮調査がきっかけであろう。西川は1903年(明治36年)御木本幸吉の次女峯子と結婚する。その後大学の動物学教室に復帰し、箕作博士の弟子として神奈川県三崎臨海実験所で真円真珠養殖の研究に専念する。1907年(明治40年)外套膜の小片を作り、これを貝体内に移植して真珠袋を作る方法を発明した。残念ながら西川はこの発明から2年後の1909年(明治42年)35歳の若さでこの世を去った。西川藤吉が発明した真珠養殖法は1917年(大正6年)特許第30771号となり、「西川式」あるいは「ピース式」と呼ばれ、現在の有核真珠養殖の基本技術となった。

一方見瀬辰平は1880年(明治13年)三重県に生まれた。11歳の時見瀬弥助の養子となり、船大工などの修行をしていたが、1900年(明治33年)頃から志摩郡の的矢湾で真珠の研究を始めた。そして上皮細胞の小片を直径0.5mmほどの核に付着させ、これを外套膜組織内に送り込むようにした注射針を考案し、1907年(明治40年)特許第12598号「介類ノ外套膜組織内ニ真珠被着用核ヲ挿入スル針」を得ている。見瀬はその後も研究を続け、1920年(大正9年)に特許第37746号を得たが、この方法は外套膜細胞を注射器で貝の体内に導くもので、「誘導式」と呼ばれている。

御木本幸吉も1902年(明治35年)元歯科医の桑原乙吉を迎え入れ、本格的に真円真珠養殖研究に着手した。そして1917年(大正6年)貝殻を球状にした核を外套膜で完全に包んで細い絹糸で縛り、貝体内に挿入する「全巻式」という方法で特許を出願した。一般社団法人日本真珠振興会はこの3人の功績を称え、1906年(明治39年)を真円真珠発明の年に定めている。

前述のように西川藤吉が仏像真珠養殖から入らず、いきなり真珠袋の研究からスタートしたのは、彼の師匠である箕作博士がすでにヘスリングの真珠袋理論を十分に理解していたためと考えられる。不思議なのは見瀬辰平の研究で、彼がもし独自に仏像真珠を経由せずに真珠袋に基づいた真円真珠作りのゴールに到達したのであれば、西川に決して劣ることない天才と言えよう。真円真珠養殖には真珠袋が不可欠であるということはドイツのアルバーデスが淡水産二枚貝で実験してその理論を1913年に確立したが、その時日本ではすでに真円養殖真珠は事業としてスタートしていたのである。

写真3:西川のオーストラリア特許

写真3:西川のオーストラリア特許

日本が世界で初めて真円真珠養殖に成功したということに対し、1978年オーストラリアのデニス・ジョージという人物が異議を唱えた。彼は論文の中で真円真珠養殖技術はオーストラリアのサビル・ケントが確立したのだと発表した。そして西川、見瀬が開発した技術は、西川及び見瀬の義父が仕事でオーストラリアを訪れた際、サビル・ケントの技術からヒントを得たものであると主張したのである。そして西川、見瀬が仏像真珠養殖から入らずにいきなり真珠袋研究からスタートさせたのがその証拠であるとも主張している。しかしよく調べてみると確かにサビル・ケントは前述のように半円真珠養殖には成功しているが、真円真珠養殖成功に関する資料は一切なく、すべてデニス・ジョージの推測であることが判明した。しかしデニス・ジョージの論文は世界中に広がったので、いつの間にか真珠の発明者はサビル・ケントと記述した本がかなり出回っている。ここにもう一つ真円真珠の発明者はサビル・ケントではないという証拠がある。それは西川藤吉の死後、息子の西川新吉が真円真珠養殖法を特許として1914年7月24日オーストラリアで申請し、翌1915年12月7日認可されている。オーストラリアで最初に真円真珠養殖技術が発明されていたのなら、なぜこの西川の特許申請時にクレームをつけなかったのか。この特許がすんなり認められたということは、オーストラリアには類似の技術は存在しなかったと考えるのが妥当であろう。

写真4:フランスの真珠裁判の判決文

写真4:フランスの真珠裁判の判決文

真円真珠作りに転じた御木本幸吉はその後順調に事業を拡大し、1919年養殖真珠をロンドンで天然真珠より25%安い価格で販売を始めた。御木本はこれまで半円真珠をヨーロッパ市場に出していたが、これは完全な真珠とは見做されず、価格も安いので、一種特別な商品として扱われていたようである。そこに天然真珠と変わらない養殖真珠が突如出現したので、「養殖真珠は本物か偽物か」という論争が起こった。そしてこの論争はパリに飛び火した。天然真珠を扱うパリの業者組合は養殖真珠が模造真珠であるという大キャンペーンを展開し、不買運動を起こした。これに対し御木本パリ支配人はこの運動は不当であると民事裁判に訴え、養殖真珠は本物か偽物かということがいわゆるパリ真珠裁判で争われることになった。そして前述のボルドー大学のブータン博士、オックスフォード大学のジェムソン博士といった当時の一流真珠研究者が鑑定を行い、養殖真珠は天然真珠と何ら変わるところがないという結論を出した。裁判は1924年の判決により、養殖真珠は天然真珠と同じ扱いを受けるようになった。こうして日本の養殖真珠は本物であるという認知を受けて以来、世界各国に販路を拡大していった。このように日本の養殖真珠を世界の市場に広め、養殖真珠を一大産業として発展させた御木本幸吉の功績は非常に大きいものがある。

1919年御木本幸吉がヨーロッパの市場に出した真珠は養殖期間が3~5年、養殖された7ミリの真珠には4ミリの核が入っていたと言われている。ということはこの真珠は4ミリの核に1.5ミリの真珠層が巻いていたことを意味する。これほどまでの養殖真珠であったからこそ、パリの真珠裁判でも養殖真珠は天然真珠と変わるところがないと判断されたのである。それからわずか100年足らずの間に養殖真珠がここまで悪い方に変わるとは誰が想像したであろうか。ライト兄弟が飛行機を発明したのが1903年。それから110年、現在何百人もの乗客を乗せて空を飛ぶのも飛行機。エディソンが電球を発明したのが1897年。それから116年、地上の隅々まで煌々と照らすのも電球。同じ名前を使っていながら良くここまで進歩したものだと思う。一方養殖真珠はどうであろうか。日本で真円真珠が発明されたのが1906年。それから107年、現在は養殖期間7ヶ月、真珠層の厚さがわずか0.2mmという真珠まで市場に出ている。同じ真珠という名前を使っていながらよくここまで退化したものかと驚かされる。養殖真珠はこうあってはならない。養殖真珠は思い出や、物語が込められるような宝石でなければならない。ここらで今一度「養殖真珠とは」という原点に立ち帰り、養殖真珠を見直す時期に来ているように思われる。(つづく)